2020年3月12日

『パイドロス』

この「『パイドロス』」対話の246A段から248C段の引用文では、プラトンは魂の本質を天の行軍に参加するために家を出る、天の翼を持つニ頭立て馬車によって構成される力として描いている。

魂は、真理、正義、科学、知恵を裏から黙想するために、天のきゅう窿りゅうに到達しようと努力する。

大騒ぎで傷を負った者は、多くが頂上に達しない。

しかし、公転の周期が終わると、各魂は家に戻り、馬たちに黙想しえられた物を与える…再び出発する前に。

魂の本来のすがたについて、つぎのように語らなければならない。

その実際の性格がどのようなものであるかをまともに説明するのは、あらゆる点からみて、神のみができる仕事であり、長い叙述を必要とするが、しかし、何に似ているかをたとえて話すことなら、人間の力でもできるし、また比較的短い話ですむ。

だから、われわれは、この後のほうのやり方で話すことにしよう。

そこで、魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持ったぎょしゃとが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。

――神々の場合は、その馬と駅者とは、それ自身の性質も、またその血すじからいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。

そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者 がづなをとるのは二頭の馬であること、しかも次に、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格である馬であるけれども、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介やっかいなものとならざるをえないのである。

それなら、いったいどのようなわけで、生けるものが「死すべき」とか「不死なる」とか呼ばれるようになったのであろうか。

魂は全体として、魂なきものの全体を配慮し、

時によりところによって姿を変えながら、宇宙をくまなくめぐり歩く。

その場合、翼のそろった完全な魂は、天空たかくけ上って、あまねく宇宙の秩序を支配するけれども、

しかし、翼を失うときは、何らかの固体にぶつかるまで下に落ち、土の要素から成る肉体をつかまえて、

その個体に住みつく。

つかまえられた肉体は、そこに宿った魂の力のために、自分を動かすようにみえるので、

この魂と肉体とが結合された全体は「生けるもの」と呼ばれ、そしてそれに「死すべき」という名が冠せられることになったのである。

けれども、これを「不死なる」と呼ぶいわれは、じゅうぶんな推理をへた根拠にもとづくかぎり、少しもない。

ただしかし、われわれは、神というものを――それを見たこともじゅうぶんに考えたこともないままに――

何か不死なり生きものというかたちで、すなわち、魂を持ち、肉体を持ち、しかも両者は永遠に結合したままでいるものというかたちで、その姿を作り上げるのである。

しかしながら、こういった事柄がいかにあるか、またどのように物語られるべきかは、神のみこころのままにゆだねるがよい。

われわれは、こんどは、なぜ魂から翼がはなれ落ち、失われるかという理由を理解することにしよう。

それは、つぎのような原因によるのである。

そもそも、翼というものが本来もっている機能は、重きもの、はるかなる高み、神々の種族のまうかたへと、

け上らせ、連れて行くことにあり、肉体にまつわる数々のものの中でも、翼こそは最も、神にゆかりある性質を分けもっている。

神にゆかりある性質――それは、美しきもの、智なるもの、善なるもの、そしてすべてこれに類するものである。

したがって、魂の翼は、特にこれらのものによって、はぐくまれ、成長し、

逆に、みにくきもの、悪しきもの、そしていま言ったのと反対の性質をもったもろもろのものは、魂の翼を衰退させ、滅亡させる。

――さて、天界においては、まずここに、偉大なる指揮者ゼウス、翼ある馬車をり、

万物を秩序づけ、万物を配慮しながら、さきがけて進み行く。

これにしたがうのは、十一の部隊に整列された神々とダイモーンの軍勢。

これはつまり、炉をまもる女神へステイアのみはひとり、神々のすみかにとどまるからである。

そのほかの神々のうちで、十二神の中に数えられ、隊長の地位に任ぜられている神々は、それぞれ自分が配置された隊列にあって指揮をとる。

まことに、この天球の内側には、あまたの祝福された光景、あまたの祝福された行路があり、幸福な神々の種族は、

それぞれ自らの任務をはたしつつ、この幸多き旅路をめぐり歩くのである。

この行進について行くことをのぞみ、しかもついて行くことのできる者は、誰でも行進に参加する。

神々の合唱隊には、嫉みというものがないのだから。

聖餐せいさんにのぞむときがくると彼らは、

天空のはてを支えるきゅう窿りゅうのきわまるところまで、けわしい路をおかしてのぼりつめる。

神々の馬車は、馬たちの力がつり合い、手綱のさばきも容易であるから、この道程を足どり軽く進んで行く。

だが、神以外のものの馬車にとっては、それは苦難多き道のりではある。

ほかでもない、悪い性質をもつほうの馬が、

駅者によって立派に訓練されているのでないかぎり、地のほうに傾き、彼を下へと引くことによって、重荷となるからである。

かくしてこのとき、魂には、世にもはげしい労苦と抗争とが課せられることになる。

[その有様を話すにあたって、まずその前に、不死と呼ばれる神々の魂のほうの道行きをたどることにしよう。]

不死と呼ばれるものの魂は、穹窿のきわまるところまでのぼりつめるや、天球の外側に進み出て、

その背面上に立つ。

回転する天球の運動は、そうして立った魂たちを乗せてめぐりはこび、

魂たちはその間に、天の外の世界を観照する。

天のかなたのこの領域のことを、

地上の詩人の誰ひとり、それにふさわしく讃えうたった者はなく、これから先もけっしてないであろう。

だが、それはつぎに話すようなものである。

ひとは、とくにほかならぬ真理について話そうとするとき、

真実ありのままを語る勇気をもたなければならないのだから。

まことに、この天のかなたの領域に位置を占めるもの、それは、真の意味においてあるところの存在――色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である。真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。

されば、もともと神の精神は――そして、自己に本来適したものを摂取しようと心がけるかぎりのすべての魂においてもこのことは同じであるが――けがれなき智とけがれなき知識とによってはぐくまれるものであるから、いま久方ぶりに真実在を目にしてよろこびに満ち、天球の運動が一まわりして、もとのところまで運ばれるその間、もろもろの真なるものを観照し、それによってはぐくまれ、幸福を感じる。

一めぐりする道すがら、魂が観得するものは、《正義》そのものであり、《節制》であり、《知識》である。この《知識》とは、生成流転するような性格をもっ知識ではなく、また、

いまわれわれがふつうあると呼んでいる事物の中にあって、その事物があれこれと異るにつれて異った知識となるごとき知識でもない。まさにこれこそほんとうの意味であるものだという、そういう真実在の中にある知識なのである。

魂はこのほかにも、さまざまの真実在を同じようにして観照し終え、その饗宴を楽しんでしまうと、ふたたび天の内側にはいって、神々のすみかへと帰って行く。

そして帰りつくや、馭者は馬たちをかいば桶のところへつれて行って立たせ、彼らの前に神食アムプロシアを投げ与え、それに添えて、神酒ネクタルを飲ませてやる。

以上が神々の生である。

ではこれに対して、ほかの魂たちはどうかというと、

まずその中で、最もよく神につき従い、最もよく神にならう魂は、馭者の頭をあげて天外の世界に超出させ、回転する天球の運動に神々とともに運ばれながら、

馬たちにわすらわされつつも、かろうじてもろもろの真実在を観得する。

また、ある魂は、ときに頭を天外にもたげ、

ときには天球の中に沈み、

馬たちが暴れるものだから、

そのために、真実在のあるものを目にするけれども、

あるものを見そこなう。

しかし、そのほかの魂たちはといえば、

いずれも上の世界を切なく求めないものとてはなく、神々行進について行こうとはするものの、力およばず、天の表面の下側から出られないまま一緒にめぐり運ばれ、

互いに他の前に出ようともがきながら、踏み合い、つき合いする。

かくしてそこに起こるのは、言語に絶したじょうらんと抗争と辛苦の汗とであって、馭者の不手際のために、多くの魂がかたわものとなり、また多くの魂が多くの翼を傷つき折られるのは、じつにこのときなのである。

これらの魂たちはみな、はなはだしい労苦に疲れはて、真実在の観照によって浄められないままに、そこを立ち去って行く。

立ち去ってからのち、彼らは、思惑ドクサをもって身を養う権とする。

しかし何のために、《真理の野》のある領域を見ようとして、このような懸命の努力が費されるのであろうか。

それは、ほかでもない、その牧場からは、魂の最もすぐれた部分が本来糧とすべき牧草がとれるからであり、そして、魂を軽快にする翼の原質は、この牧草によって養われるからである。

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